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2004年 08月 30日
これから本記事をお読みになろうとするみなさまへ。
下記投稿に大幅に加筆・修正した
『荒戸さんと鈴木さんのこと“荒戸源次郎と鈴木清順と私の3年間”』 という文章をつくりました。荒戸源次郎氏が亡くなり、その翌年、鈴木清順監督も亡くなったことも含めて書かれています。 ぜひ、そちらをお読みいただけたら幸いです。 ………………… 最近、インターネット上で鈴木清順と「オペレッタ狸御殿」で検索をかけると、やけに多くの記事に引っかかる。理由は、ブログの個人記事によるせいだろう。ブログによってだいぶサーチエンジンも大変になってきた。 あるいは、入れ替わりが激しくなるだろう。前に清順監督のマネージメントのようなものをやったということについて、もうそろそろ触れておいてもいいかと思う。 シネマ・プラセットに入ると、やらされたのはまず宣伝ポスターや宣伝チラシを持って、新宿や渋谷の飲み屋に行き、貼らせてもらったり、置かせてもらったりすること。そのうち、『陽炎座』の初号があがり、その試写会用に、渋谷の桑沢デザインの隣の神社の空き地に、例のエアドーム式の銀色のテント小屋を建てることになった。この設備の建て方のノウハウの一部始終を知るのは、天象儀館からいるTさんしかいない。そして、私たち新人も参加させられた。(先に吉祥寺のPARCOの屋上に設置してあったドームの撤去があった気もするが)なんと休日なしである。これが、当たり前なのだ。 そして、いざドーム建設に参加したときは、正直言って本当にまいった。一週間ほぼ10人くらいのスタッフが徹夜でドームを建てるのである。もちろん、映写設備や椅子、空調、内装も含め全部である。入りたてで、まだここの事情も飲み込めない私は、この段階で「ここはまともな場所ではない」とはっきり気づいた。このまま、ここにいたらまずいと真剣に考え、渋谷・道玄坂の百軒店の上のマンションにあった、ポスターや販促物をつくり、それを配り、そしてドームまで建てるスタッフ事務所から、南平台にあったオフィスの方で『陽炎座』のメディア向けの宣伝を行う仕事に移ろうと、宣伝のための企画書を書き、それを社長の荒戸さんに手渡し、そのお願いをした。 ここで、まず道が大きく別れた。どちらも大変な仕事に変わりはないが、道玄坂のスタッフルームにいたら、私はとっくにそこを辞めていただろう。もともと、定規、カッター、トンカチに、ペンチといったものを操ったりするような器用な人間ではない、私ははっきり言って不器用な人なのである。南平台のオフィスに移った私の最初の仕事は、陽炎座のパンフレットづくりだった。しかし、それはパンフというより本だった。定価2800円。厚い裏表紙のなかにこの映画のフィルムの1駒が忍ばされ、内容はさまざまな文化人・評論家・著名人による文章とシナリオとからなる箱入りの本である。まず、誰に書いてもらうかを決め、電話で依頼をし、必要ならば試写を行い、原稿を頂きに行く。 最初の試写会の頃は、上映後来て頂いた記者や評論家を連れて、焼き肉屋に行き、そこで映画の話となる。いわば、接待である。やがては、通称パブと呼ばれるさまざまなメディアに記事として取り上げてもらうように働きかける仕事が多くなり、そのための作戦や戦略が練られ実行に移される。その年の冬場からずっと試写と宣伝の日々、翌年の春にはドーム2号館(さらに大きくし楕円形構造になった)ができあがり、西新宿の三井ビル下の広場で先行ロードショー、その後日本ヘラルドの手で全国公開という予定。パンフづくりのために、私は自分の好きな作家の方にもたくさん電話をし、意外とご本人が出られることが多いのを知った。それらの方は、電話口ではとても丁重である。亡くなった埴谷雄高氏などは、自分は今白内障を患っていて観られないが、大岡昇平君だったら(辻邦明氏だったかもしれない)観てくれるでしょうと言ってもらったり、これもまたお亡くなりになった中井英夫氏には、たいへんに興味を持って頂き、わざわざ試写にいらしていただき、アサヒグラフに立派な映画評を書いてもらった。 私が直接手がけ成功した宣伝仕事は、清順監督と山口小夜子さんの雑誌an・anでの対談企画である。たぶん、まだ平凡出版だったころのan・an編集部に直接電話し、二人の対談企画を申し込んだところ、乗り気になってくれ、すぐ試写を観てもらい、小夜子さんに対談を申し込んだ。山口小夜子さんは、大学時代、私がとても好きだったモデルさんで、パルコ劇場に寺山修司の『中国の不思議な役人』という芝居を観に行ったことがある。確か、監督の『ツィゴイネルワイゼン』を気に入っているという記事をどこかで目にしたんだと思う。それで、これならと企画を持ち込んだのだ。 an・an編集部の担当者と私との間では、「今回の対談で、小夜子さんが清順監督の映画に出たいと言ってもらえば、成功ですね」なんて会話を交わしたのを思い出す。こちらも事前に小夜子さんのマネージャーにご挨拶をしておいた。当時、マネージャーをしていたのが故・本木昭子さんで、その後、自分が今いる道に進むきっかけをつくってくれたのも本木さんである。(この仕事の後もなんやかんやと本木さんには世話になった。ありがとうございました。) 西麻布にあるアンティーク趣味の中華料理店で行われた対談の当日は、目の前にした(憧れの)小夜子さんも寡黙で、清順監督もなにやら珍しく緊張状態の様子。ほんとうにこれで記事になるのか心配なくらいだったけど、後からこの対談をおもしろがった大楠道代さんが駆けつけ、場所を一気に和やかににぎやかにして頂いたおかげで、最後は小夜子さんから「次は、監督の映画に出たい」という言葉を引き出すことができた。その時の記事の写真を見ると、たしかに監督はそうとう緊張気味なのがおかしい。 さて、こんな話ばかり延々と書いていてもしようがない。 こんなことをしているうちに、陽炎座は日本全国公開、私たちは初日、主演の松田優作さんと大楠道代さん、そして加賀まりこさん、楠田枝里子さん(?、はいなかったかな)を伴って、都内スバル座と関内の映画館へ舞台挨拶にまわった。 しかし、映画はすでに書いたように、興行成績は上がらず惨敗。あっと言う間に、プラセットは未払い金だらけになり、かかってくる電話は督促の電話ばかりの経営困難の状況に追い込まれていった。荒戸さん以外の社員の間で、今後どうして行くかが検討され、一応清順さんも役員だったので、監督にもCMの演出などで稼いでもらわなければ、という状況になっていた。 で、監督に取材宣伝関係のもろもろの依頼をしていた私にそのおはちがが回ってきたのである。 ある時は、すでに病状の悪化していた寺山修司さんからのお話ということで、清順監督は『毛皮のマリー』の再演の演出を直接、美輪明宏さんと寺山さんの奥さんにお会いして依頼された。監督は帰り道、「とにかく、(照明に)色でもぶっかければいいんだろ」とか言いながらも悩んでる風だったが、やはり断られた。映画と演劇は、監督の中では、何か決定的に違うようだった。 またある時、NHKの『おしん』をなさった岡本由紀子プロデューサーから、電話をいただき話を伺いに行くとドラマの主役をぜひお願いしたいとのこと。共演は加藤治子さん。年老いてた夫婦の車での二人旅の長編ドラマである。(『道連れ』)清順監督は、それまで確かにちょい役というかゲスト出演のような形で大森一樹監督の映画には出演したりしてはいたが、役者として主演というのは、これが初めての話である。ギャラも大してよくなかったので、恐る恐る監督に電話をすると、この話には案外簡単にのり、以降、単に役者としてのさまざまな映画やドラマへの出演も多くなり、ご本人の口から、日本映画監督協会・俳優部の鈴木ですから、という冗談を何度か聴いた。 やがて、プラセット倒産。役員が税理士に相談したのだろう、私たちは倒産の数ヶ月前、雇用保険にいきなり加入した。それから職安という場所にやむなく行った。清順監督もである。職安では、自分の希望する職種を聞かれる。私は、その時「これが自分の職業である」と言えるものを持ち合わせていなかったので、まさか「映画関係」とか言えるはずもなく、そんな仕事が職安に転がっているわけもない。監督と会ってその話をしたら、「映画監督って答えたら、そんな仕事あるわきゃないでしょ!と怒られたよ」と清順さんは大笑いした。 その後、短い間だったが、しばらく監督との仕事上でのお付き合いは続くのだが、今回はこの辺で。
by tsukimoto_natsumi
| 2004-08-30 13:46
| 映画
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Comments(6)
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by
ロキフェル
at 2009-04-03 14:23
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通りすがりで思わず書き込みました33歳男です。現場に立ち会ってこそ書けるものすごい記事ですね…。 職安話!ロックだなぁ!
加藤治子さん、鈴木清順氏のNHKドラマは再放送で見ました。不器用な感じがとても印象に残っています。 「ツィゴイネルワイゼン」の間接的影響者として寺山修司がいたのでは? と僕は勝手に憶測しているのですが、筆者としての考えはいかがでしょうか。
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tsukimoto_natsumi at 2009-04-14 07:52
おはようございます、 ロキフェル様。
勝手な推測ですが、どちらかというと寺山さんの方が、清順監督の映画から影響を受けていたように思われます。 たとえば『書を捨てよ町へ出よう』(1971)なんてあからさまに清順監督の『刺青一代』(1965年)からの影響が見てとれますよね。 上記の記事でも、寺山さんの清順監督へのリスペクトからの『毛皮のマリー』演出依頼だったと記憶します。
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ロキフェル
at 2009-04-17 05:53
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過去ログにも関わらず、返信ありがとうございます
そうなんです、そうなんですが、寺山氏の1970年代初頭のワークス(田園に死す含む)を観て「おいおい」と。 「こういうのやらせたらオレの方が上だぜ?」と鈴木監督のクリエイティブ魂に着火させたのではないだろうか、という意味でした。 「ツィゴイネルワイゼン」をあそこまでモンドなモノとして「完全に」形作るにはどこかしらのヒントや触媒がなければ成し得てないはずだ、と思った次第です。日本映画の系譜としてもやはり異質だったはずだからです。伊フェリーニの「81/2」にも同様のことが言えるのですが。
こんにちは、ロキフェルさん。
どこまで本気かわかりませんが、清順監督の口癖は「僕は娯楽映画の監督だから」でした。 永い日活撮影所での監督経験からの発言だったと思います。 それと職業監督になってからは、人の作品は観ないと言っていた記憶もあります。 それも、誰それから影響を受けているとか、何かの映画に似ているとか言われたくないという趣旨からの、取材時にお付き合いした時の発言だったと思います。 『ツィゴイネルワイゼン』は、清順監督にしてはどこか初々しさが漂うある意味監督処女作のような映画でしたね。
はじめまして。
勝手にリンクを張らせていただきました。どうぞよろしく。
Commented
by
Tsukimoto_Natsumi at 2013-05-18 06:17
木全さん「映画の國」コラム、拝読しています。
こちらこそ、こんな古い記事にリンクいただきありがとうございます。
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