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2010年 11月 06日
下記の記事を書いたのは、14年前。 それから、藤圭子まで2013年に亡くなってしまった。もうこれ以上、言うことはない。 ……… ----------------------------------------------------------- 歌手宇多田ヒカル(27)の祖母で、藤圭子(59)の母親の竹山澄子(たけやま・すみこ)さんが4日午後5時30分、肝臓がんのため都内の病院で亡くなった。80歳。藤の幼少期には流しで全国を一緒に回った。20年ほど前に金銭トラブルが生じて以降、藤とは絶縁状態で、病床で「娘と孫に会いたい」と寂しがっていたという。 娘の藤と絶縁したまま、孫の宇多田とは歌手になってから一度も会えずに、無念の最期となった。 ------------------------------------------------------------ 石坂まさをの『きずな』(1999年・文藝春秋)は、母子の「きずな」を複層的に描いた本である。 複層的というのは、石坂本人とその母(実母ではない)の物語と、藤圭子と流しをしていた盲目の母、そして宇多田ヒカルとその母である藤圭子の物語が、ある種それぞれ似姿のようにだぶって語られていくからだ。 この本が書かれた1999年という時代を考えるとき、とりあえず物語が、当時、宇多田ヒカルが、そのファーストアルバム『First Love』を日本で800万枚以上の、国内アルバム売り上げ史上最大の超メガヒットをさせていた時期ゆえに、宇多田ヒカルをこれから必死に売り出そうとしていた藤圭子と宇多田母子のエピソードからスタートするのは、やむを得ないのかもしれない。 平成4年(1992年)の夏、作詞家・石坂まさをに一本の電話が入る。申すまでもなく、石坂まさをは、藤圭子の代表曲『新宿の女』『女のブルース』『圭子の夢は夜開く』『命預けます』の作詞ばかりでなく、彼女のマネージャーとして歌謡界に送り出した人物である。 その電話からの声を石坂は、こう表現する。「電話の向こうの声は太いけれど、相変わらずなめらかなビロードのような艶やかさで、憂いを含んだ話し方も昔のままだった」 声の主とは、もちろん藤圭子であり、彼女は明日会えないかと、何年も会っていない石坂に、まるで昨日別れたばかりの友人のように切り出す。そして、翌日青山のホテルで会ったのは、藤圭子と彼女の夫で音楽プロデューサーの宇多田照實と、まだ9歳のヒカルである。圭子は、石坂にヒカルの歌をぜひ聴いて欲しいと迫る。圭子はヒカルがいかに天才であるか、熱弁をふるい、一本のデモテープを石坂に差し出す。その隣で、ヒカルは無心に漫画を読みふけっていた、という表現が、その後の物語のちょっとした余韻になる。石坂は、そのテープを受け取ることができない。 まもなく、石坂は売れない作詞家時代での、はじめての藤圭子との出会いに回想をめぐらせていく。 昭和43年(1968年)に、石坂のもとに、石坂の弟子だった男性歌手が17歳の少女を連れてきた。ここでも、少し本から引用する。 「少女の名は阿部純子。十七歳。肩まで垂らした長い髪と、日本人形のような丸くて色白の顔に黒くて太い眉が印象的だった」 すでに、このシーンで私たちは、翌年『新宿の女』でデビューし、その翌年には、同曲の他に『女のブルース』『圭子の夢は夜ひらく』『命預けます』を大ヒットさせた歌手・藤圭子のみごとなまでの素描に出会うのである。 同時に、石坂はその面差しとは似ても似つかない、太くてドスのきいた彼女の声に驚き、彼女に曲を唄わせる。ギターをポロンと奏でながら純子が唄うのは、『星の流れに』そして『カスバの女』である。 ここで、石坂は唸ってしまう。私もこの本のこうした開闢にやはり唸った。 『星の流れに』は、敗戦直後、街に立ち春を売る女たちの哀しい心情を唄ってヒットした歌であり、『カスバの女』もやはり、明日なき外人部隊の兵士たち屯する酒場で、春を売る女が刹那に兵士に恋して歌う、今では無国籍歌謡と言われてもしようがないキャバレー歌手出身の竹越ひろ子が67年にヒットさせた挽歌の傑作であるからだ。(本歌はエト邦枝) ちなみに、竹越は力道山の経営していたクラブリキの専属シンガーだった。 こうして、石坂は藤圭子を預かる羽目になるのだが、この時、石坂はまだ、藤圭子の存在をうまく咀嚼できていない。彼の肩を叩いたのは、その様子をとなりの部屋で聞いていた石坂の母である。それでも、石坂は少女の生い立ちや育った環境が気になってしまう。 ご存じのように、圭子の父は浪曲師であり、母親は盲目の三味線弾き。その両親のもとで、少女は早くから北海道を流して暮らしていたのである。早い話、ドサ廻りの「門づけ」である。(私はすぐに鈴木清順の映画『ツィゴイネルワイゼン』で麿赤児らの演じる門づけの姿を想像してしまう) 翌日、少女から石坂に直接、電話が入る。今度は彼女の両親とともに会って欲しいのだという。ここで、少女の両親や育った過酷な環境が描かれる。純子の歌のおかげで、一家は何とか旭川に家を構え、そうして彼女を歌手にするために上京してきたのである。しかし、父親はどこかふて腐れ、熱心に純子を売り込むのは、母澄子だ。(ここにも、これが母子の物語であることが強調される。) 石坂は、少女を育てる決心をする。そして、阿部純子は「藤圭子」になり、石坂自身も本名の澤ノ井龍二という名前を「石坂まさを」に変える。 ここまでが、第1章。第2章は、石坂の生い立ちの話に振り当てられ、第3章は、石坂が作詞家を決意し、なんとか自立するまで。いよいよ第4章からが、藤圭子を売り出すまでのストーリーになる。 ☆ これを読むまで、石坂にまつわる知らなかった話も多く、その点に興味が惹かれるが、話が急展開するのは、ここからだ。 じっさい、藤圭子のヒット曲の誕生秘話がかなりおもしろい。 たとえば、『新宿の女』の有名な1フレーズが、友人の作詞家からの借り物であることや、藤圭子の濡れたような瞳と白い肌を際だたせるために、選んだ黒のベルベットのパンタロン・スーツ、そして印象的な白いギター。(当初はメタリックシルバーのギターにする予定だった。)石坂や彼女を支援する人間として、林家三平も登場する。石坂の考えた極めつけは、藤圭子のキャッチコピー「演歌の星を背負った宿命の少女」である。このフレーズに、彼女の生い立ちや育った環境が凝縮されている。石坂は、彼女の過酷だった「過去」も含めて売り物にする決心を固める。『新宿の女』をヒットさせるまでの異常なまでのな石坂の奮闘ぶりがすごい。 こうして、70年に入りやっと『新宿の女』がヒットすると、後は転がる石の勢いである。しかし、藤圭子のバイオグラフィーを辿ると、実質的に彼女が、次々に大ヒットを飛ばし、彗星のごとく輝いていたのは、70年と71年のたった二年でしかないことに、私たちは気づくはずだ。 藤圭子の第2弾は『女のブルース』。 女ですもの 恋をする 女ですもの 夢に酔う 女ですもの ただ一人 女ですもの 生きてゆく オリコン初登場で、いきなり第一位となる。 そして第3弾『圭子の夢は夜ひらく』 紅く咲くのは けしの花 白く咲くのは 百合の花 どう咲きゃいいのさ この私 夢は夜ひらく ここまでを石坂は、念願の「紅白」出場を願って、ほぼ即興でつくったという。その2番も手間なく仕上がったという。 十五 十六 十七と 私の人生 暗かった 過去はどんなに 暗くとも 夢は夜ひらく まさに、藤圭子の人生そのものである。同時にそれは、石坂の人生ともオーバーラップする。3番をつくったところで、藤圭子は石坂にこんな感想を洩らす。「先生、これなんだか古臭いんじゃない?」どうしたらいい?と石坂は、圭子に聞くと 昨日マー坊、今日トミー と歌い出したというのだ。これは知らなかった。続けて、石坂がそれ以降をつくっていった。 明日はジョージか ケン坊か 恋ははかなく すぎていき 夢は夜ひらく 『圭子の夢は夜ひらく』と『女のブルース』は、ヒットチャートの一位と二位を40数週間独占した。歌謡史上かつてない快挙である。 思うに、藤圭子の歌の魅力とは、どこか捨て鉢な、なげやりなところにある。ふたりの出会いで歌われた『カスバの女』が、それを象徴している気がする。 『カスバの女』(作詞;大高ひさを 作曲:久我山明) 涙じゃないのよ 浮気な雨に ちょっぴりこの頬 濡らしただけさ ここは地の果て アルジェリア どうせカスバの 夜に咲く 酒場の女の うす情け つねに、藤圭子の歌には、この「どうせ」という刹那なムードが漂っている。 思わぬところから、応援が入る。作家の五木寛之が「ここにあるのは<演歌>でも<援歌>でもない。これは正真正銘の<怨歌>である。」と70年6月7日の毎日新聞日曜版に「艶歌と援歌と怨歌」という記事で書いたのだ。(現在角川文庫『ゴキブリの歌』に所載) まさに、藤圭子の人気は破竹の勢い。 しかし、そうした事態をもろく崩すさまざまな問題が発生する。(が、ここでは詳しくは触れない。)もう、石坂一人の手には負えなくなってきていることを自覚するのだ。 ☆ 石坂まさをは、藤圭子のマネージャーをやっている間、彼女以外に歌を書かなかった。しかし、社会現象にもなってしまうほどのすさまじいまでの人気ぶりに、自ら怖じ気づく。また本文から引用する。 「私は自らがつくりだした「藤圭子」の虚像に恐れを抱くようになってしまっていた。阿部純子という少女を「藤純子」として売り出すことに成功したのだから、もう私のマネージャーとしての役目は終わっている。藤圭子が「演歌の星を背負った宿命の少女」なら、その星は、やがて流れて消えていくのも宿命でなければならない。人の手でつくられたものが永遠に輝けるはずないのだ」 石坂は、五木寛之の小説『艶歌』のモデルにもなった日本コロムビアのディレクター、馬淵玄三の言った言葉を思いだす。 「歌手を長生きさせるには、レコードを30万枚以上売らないこと。30万枚を越したら、出荷をストップさせるのだ」という言葉だ。にわかには信じられないが、たしかに異常人気を得てしまったゆえに、そのプレッシャーや、そこに生まれてしまったその虚像から苦しみ、いつの間にか消えていくさまざまな歌手の末路を、私たちはまったく知らないわけではない。 藤圭子も、またデビューからたった一年、たった3枚のシングルで、彼女の人生までも「売り物」にして社会現象ともなり、スターダムにのし上がったのだ。もう一度、本文から引用する。 「もう「藤圭子」の命は私の手に負えなかった。自らがつくりだした虚像であるならば、私の手で葬り去るしかない。私は、この歌で「藤圭子」を殺そうと思った。時代のなかに「藤圭子」の命を預けてしまえば、時代はかならず審判をくだしてくれる。」 そうしてつくられたのが、第4弾の『命預けます』である。 『命預けます』 命預けます 流れ流れて 東京は 夜の新宿 花園で やっと開いた 花一つ こんな女で よかったら 命預けます 石坂の切実な思いが、じつによく伝わってくる。 ここで、石坂が手がけた藤圭子の曲をおさらいしておくと、69年9月発売の『新宿の女』から70年10月の第5弾『女は恋に生きてゆく』、71年になり2月に『さいはての女』、5月『恋仁義』、そして71年10月の『知らない町で』まで、9枚のシングル中、そのA面の8枚の作詞をしている。そして、1972年1月の『京都から博多まで』の作詞は、石坂から阿久悠にバトンチェンジされる。これは、なんだかとても象徴的なできごとである。阿久は、自分の書いた歌詞に一度も「どうせ」という言葉を使わなかったという。 71年、第6弾の『さいはての女』からは、藤圭子のシングルの売上げが極端に伸び悩んでいくのだ。あるいは、藤圭子のヒット曲のすべてが、1970年に集中していると言ってもいい。その凋落をファンに気づかせずにすんだのは、歌手・前川清との結婚と、一年後の離婚騒動によるものかもしれない、と思ったりもするが、私個人としては、まあ、それはどうでもいいことである。 「人類の進歩と調和」をスローガンにした大阪万博が、華々しく開催され、それが大成功を収め、日本のGNPが世界二位まで成長し、まばゆいばかりの未来への光が満ちあふれていたはずの1970年という時代は、東京オリンピックの次に迎えた日本の大きな変節点である。この時代くらいから、地方の過疎化が進み始める。すべては、経済第一主義で進行してゆく。隠花植物のように暗く輝く藤圭子のような歌手が活躍できたのは、そうしたものが次々に葬り去られ、忘れ去られてゆく70年だったからこそ、ともいえるかもしれない。 あのふるさと発見の「ディスカバー・ジャパン」のブームさえ、広告代理店と国鉄という大企業が手を組んでつくった巨大な観光事業にしか過ぎなかった。 だが、とりあえず時代に感傷的になるのはやめておこう。 歌謡界では、歌手の過去の不幸を売り物にして、その歌手を世に送り出したという歴史はそれまでにも多くある。たとえば、こまどり姉妹。 そして、藤圭子の後には、山口百恵などもそのケースになるのかもしれない。だが、「一億総中流」を迎えた80年代には、歌手にそうした売り物手段は必要なくなってくるのかもしれない。 いずれにせよ、藤圭子とはひとつの時代のなかでの咲いた美しい徒花(あだばな)だった。しかし、それは彼女の瞳のように、黒く大きく明るく潤んで輝いていた星であったことに、間違いはない。 ☆ 最後に(いささかセンチメンタルにはなるが)11月6日、宇多田ヒカルがtwitterでつぶやいた言葉を引用させていただく。 母方の祖母が亡くなったことを知りました。おばあちゃんとは色々あってずっと会えなかったけど、子どもの頃よく預かってもらってお世話になったのは覚えています。おばあちゃんありがとう。お焼香してあげられなかったのが残念です。
by tsukimoto_natsumi
| 2010-11-06 12:03
| Music
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Comments(3)
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(Y)
at 2010-11-08 20:43
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月本様
お久しぶりです。手元には藤圭子のシングル盤がかれこれ20枚程有るには有るのですが、なかなかちゃんと聴くことが出来ません。いつになったら正面から聴けるのかなあと思いつつ、時間が過ぎて行きます。あまりに時代の匂いが強過ぎて…というのは後付けの理屈かもしれません。竹越ひろ子のオリジナルはすんなり聴けるのに、不思議ですね。 またお会いしたいですね。上京の折り、ご連絡致しますね。
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月本夏海
at 2010-11-10 12:25
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(Y)様。 こちらこそすっかりご無沙汰してしまっています。お元気でご活躍でしょうか?
藤圭子さんの母の訃報にともなって、以前投稿した記事3本をひとつにまとめてみました。最近では音楽をあまり熱心に聴くこともなくなってしまったのですが、時折ラジオなどで彼女の歌を聴くと、心揺すぶられます。 ぜひぜひ、またお会いしましょう。ご連絡をお待ちしています。
先だっては私のブログにコメントして下さりありがとうございました。
藤圭子といえば、少し前の「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」で宇多田ヒカル特集をやっていましたね。ただ、内容はもの足りないというか残念というか……。 ゲストが「宇多田ヒカルのスタッフも聴いている」と言っていたので、コーナー自体が単なる宣伝だったのかもしれません。 番組としての面白さや批評性に一定以上の信頼があるぶん、ちょっとガッカリでした。 ちなみに、「夢は夜開く」は三上寛のヴァージョンがすきです。
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